高知学304  鉄道の変遷を社会から探る2  鉄道の復興

1945年の敗戦から1950年代にかけて日本人の合言葉は「復興」でした.戦災前の日本に戻すということです.

 1951年、講和条約、日米安保条約が締結され、現在に至る日本の体制がつくられました.一方同年には天皇以上に権威を持ったマッカーサー連合軍司令長官が解任され、また一極の象徴であったスターリンが1953年に死去し、日本は昔の姿ではない自立の道を探ります.

(1953年南海高野線高野下 三日市以南は急カーブが連続するので短い15mの車両)

 1953年、電車の窓には板ではなくガラスが入り、座席も板張りから布へ、貫通幌が戻って車両間が行き来できます.日本人も「進駐軍専用車」並の乗車ができるようになったのです.強いて言えば「急」の円板に残る英字が占領の名残りでしょう.戦争から8年でここまで来たのです.

(布張りのシートに感激.中吊り広告は花の名所、つつじ人形、歌舞伎、ボートレースと平和)

 1954年、新型車両11001型が走り出します.高速駆動系、全車転換クロスシート、そして薄緑に緑の帯はついに「復興」を越えたのでした.

(11001型新造車、1954年南海本線天下茶屋)

高知学303  鉄道の変遷を社会から探る 1 敗戦混乱期の鉄道

 鉄道の姿はその時代の社会情勢と関係します.時代と共に変わる鉄道の変遷を社会から探ります.

 敗戦混乱期を身近に過ごした南海高野線の写真から振り返りました.1945年、敗戦時の鉄道は空襲によって壊滅の状態でした.満足な車両は無く電力の供給は途絶えがちでした.そこで蒸気機関車が起用されました.南海では1Cテンダ機関車のC10001、元々は海南島の鉱石輸送のためにつくられたのですが、戦況の悪化に伴いそれどころではなくなり、放置されていたものを利用したのです.この機関車は後に岡山県の片上鉄道でタンク機関車に改造されC13という形式になりました.

(片上鉄道C13、1955年.戦後南海で走ったテンダ機関車をタンク機関車に改造した)
(木造客車サハ3801、1952年堺東.蒸気機関車に牽かれ汐見橋・長野間で使用)

 牽く客車は筑波鉄道、阪和線で使い物にならなかった木造車です.ガラスが無いので板張りに小窓だけがつくられています.真っ暗で開け放しの扉から入る光がたよりでした.屋根の雨漏りに応急のキャンバスを張っています.

(元のアプト機関車を持ってきた5161.1952年石津川)

 貨物のために碓氷峠の旧型アプト式機関車ED40がやってきました.ロッドで各軸を駆動する方式でした.5161となり、一度上の蒸気機関車と重連で走っているのを見ましたが同じようにせわしなくロッドを回していました.1919(大正8)年大宮工場製で、現在重要文化財として保存されていますが重文級も使用されたのでした.

(進駐軍専用車、1954年堺東.浜寺付近に米軍キャンプや高級将校のための接収住宅があり南海本線で使用)

 その中で眩しかったのは「進駐軍専用車」です.これは窓にガラスが入り、綺麗に塗装されシートも板張りではなく布地でした.以前は明確な区別のため黄色の丸とUS Armyの文字がありましたが、白線だけが残る1954年最後の姿です.同年は自衛隊発足の年、もう米軍を特別扱する必要は無くなったのでしょう.かつて一般車両の扉横には “Off limits to occupation forces” の標記があり、日本人の乗る車両には伝染病感染のおそれがあるとされたのでした.

高知学302  1950年代の電車2  南海電車

 大阪の私鉄電車ターミナル、それぞれに豪壮さを競っていました(中にはほど遠いものもありましたが).しかしもっとも雄大な駅は南海難波と思います.

 4棟のアーチに8本の線路です.レール置場になっているところは引上線用地で遠大な構想です.駅に接して旗の翻る高島屋、8階が大食堂でケチャップの帯の上に日ノ丸が立つオムライスが定番でした.

1954年 南海難波駅

 駅の西は南海ホークスの本拠地、大阪球場.シーズンオフにグラウンドにスケート場が開設された時期もありました.

大阪球場

 駅に入ってきたのは20m級の2001型です.1937年、このグループに日本最初の冷房電車が出現しました.個別のクーラーを屋根に載せた車両と、一か所に置いてダクトから連結2両に吹き出す車両、2種ありましたが、その後の戦争突入で撤去されました.

 球場上広告の丹頂チック、今知っている人はどれくらいかな?

難波発白浜口行きの「黒潮」

 戦争中に国有化された阪和線では天王寺から紀勢西線への列車が運行されました.1952年に南海難波からもこれに連結する車両を電車で牽引して運行することになったのですが、客車は国鉄の古いオハフ33でいかにも見劣りがします.

 南海は自前の客車を新造することになりました.これが緑色の客車、サハ4801です.本来は国鉄を上回る豪華なものにしたかったのでしょうが、それでは国鉄が許しません.三等車ですが限りなく二等車に近づけるのがそのコンセプトとなりました.

試運転中の南海の客車

南海の客車

 天井は窓上から一体の白色アルミに蛍光灯で明るいのです.座席は二等並の青色で、ビニールながら白色のカバーがかかっています.肘掛けは低く空いていれば横になって頭が乗せられます.

 さて、市電の走る駅前からは戎橋通りに入ります.背後は精華小学校で、繁華街から校門へ小さな道がありました.長じて難波が通勤ルートになったとき、休み前におみやげを買って帰りましたが、551の豚まんかヒロタのシュークリームでした.

難波駅前

高知学301 1950年代の電車1 阪急電車

関西で住まいが阪急沿線というと、「ええとこに住んではりまんなあ」と直ちに返事が返ってくるであろう.阪急のブランドイメージは格段に高いのだ.

夙川

 それは駅、電車、沿線住宅地、案内広告、宝塚歌劇など長年に渡って絶えることなく変わることなく積み重ねられた結果なのである.

 電車.溜色の品の良い塗装、車内は全鋼製でも木目印刷、戸袋窓はうっとうしい出入りが目に入らぬよう曇りガラスになっている.そしてシートは高級感溢れるゴールデンオリーブの羊毛.

 大先輩の山口益生氏が書いている.ある年天候不順から羊毛価格が高騰し、やむなく毛足を短くした.その後に乗車した役員がシートの感触の違いに気付き「質を落として価格を抑えるのは誰でもできる!」と一喝されたという(「阪急電車」、JTBキャンブックス、2012).

 夙川(しゅくがわ)の住宅地を走る大阪・神戸特急、一番阪急らしかった.

甲陽線 苦楽園口

 甲陽線は終点を含めて二つの駅の短い支線だが、阪急がつくった住宅地への路線であり、阪急らしさを感じることに変わりはなかった.六甲山へのハイキングコース入口でもある.

甲陽園

 昼間は1両の電車が往復しているところもよいではないか.

梅田2番ホーム

 阪急の梅田はガラス屋根アーチの大ターミナルで、上にはキタではもっとも高いイメージの阪急百貨店がある.しかし宝塚線の普通電車は端っこの穴蔵で着発していた.

2022年7月19日 | カテゴリー : 室戸への道 | 投稿者 : 河田 耕一 | コメントをどうぞ編集

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高知学212 室戸への道を歩く12 室戸岬先端へ

前回歩いた室津の町の外れから、ついにというか室戸岬の先端に向かいます.この間5kmくらいであり、昔50-60代の頃、東海道、中山道、奥州街道などを歩いたときは一日25kmくらいだったのですが. 

室津港
岬の先端へ

 岬の遊歩道を海岸に向かいます.青い海が覗きます.

盛り上がる

 振り返ると灯台のある盛り上がった岬の先端が迫ってきます.

先端の岩礁

 先端は岩が点々と海に沈んでいます.いや沈んでいるのではなく地震の度に上がって現れているのです.次の南海トラフ地震によってこれらが次の先端となります.

層状の岩

 フィリピンプレートの上に積もった土砂が層状の岩となり、トラフでの沈み込みで剥がされてやってきています.生まれた巨大な岩が無秩序に破壊し折り重なっています.海中にはこれから上がる岩が待機しています.

海で待機
斑レイ岩

 かすりが入った岩があります.マグマが貫入してできた斑レイ岩で、硬いので砕けずに丸く磨かれています.

砕かれた石

 砕けて岩の間に散らばった石の中にも欠けたばかりの尖ったかけらが混じっています.

船が行く

 沖合を絶えず船が行き来します.阪神と高知、九州を結ぶ航路になっているのです.

ともあれ12回でここまでやってきました.岬をまわったところにあるゲストハウスに泊りました.スペイン人と日本人の奥さんがやっていて、この前はカンボジアで開いていたそうです.

 パエリア、ハモンセラーノの生ハム、スペインワインで祝杯を挙げました.

ゲストハウス
パエリア

(おわり)

高知学211 室戸への道を歩く11 行当岬から室津 室戸市の中心にある津照寺

 崎山台地から下って室戸の町へ向かいます.この先に台地はありません.尖った室戸岬の上には平地がないのです.岩礁の行当岬から、通ってきた羽根岬、大山岬が見えます.

行当岬の岩礁
室戸岬

 一方、反対を向くと室戸岬の山は雲に覆われています. 

 国道55号と並行した旧道を歩きます.

旧道

 1/3くらいは住む人の居ない家のように思われ、新しい建物はみな老人施設です.小さな花屋さんがありました. 

旧道の花屋さん

 室戸市の中心が室津港で、25番津照寺があり賑わっています.山門は派手ですが、海で亡くなった人たちはいまこのような竜宮城で暮らしていますよ、ということではないでしょうか.

津照寺

 ただ周辺は失礼ながら古いコンセプトの店々で、また来てもらおう、そしてまた来よう、という気持ちに欠けるように思うのですが.

 傍に魚屋があります.キンメダイを買いに時々来ます.

キンメダイの煮つけ
電柱の目盛り

 さらに歩いて菜生(なばえ)からバスで戻りました.傍の電柱に津波高さの表示と目盛りがあります.この辺りは1934年の室戸台風で60mの暴風と12mの高波の大災害を受けたところで、鎮魂碑があります.

 南海トラフ地震では室戸岬が1.5m隆起するため、その分津波は和らぐともされますが.

室戸岬からのバス

 次回で岬に到達します.

(つづく)

高知学210 室戸への道を歩く10 吉良川から行当岬 崎山台地、無人の農免道

2022.4.28

 吉良川町の東西を流れる川で西山台地は終わりますが、その先で再び崎山台地へ上ります.標高は奈半利では100m、西山では150mでしたが、この崎山は180mで、室戸へ向かうほど隆起が大きくなっています.

崎山台地へ上がる道

 台地は「農免道路」が貫通しています.西山台地の「広域農道」より早く、1980年代につくられています.谷を渡る豪快な橋があり、道幅はやや狭いものの機能的に変わりはありません. 

 農免道路とは、ガソリン価格の高騰に伴い農業用については免税との要望に対し、農業用だけを特別扱することは難しいが、その分を農道整備に身替りするとのことで生まれた仕組みです.民主党政権下の事業仕分けで今は無くなっています.登り口に記念碑がありますが室戸市長の揮毫です.広域農道は県の管理ですが、農免は市町村です.

農免道路の風景

 台地には昔は集落もあったと思いますが、いま草の茂った荒地ばかりで人家はありません.道路端には石垣や平地も見られるので家々があったのでしょう.どこで作業をしているのか草叢にバイクが止まっていました.

荒地のバイク

 何台かの軽に会いました.農作業を終え昼に下に戻るのです.道端で持参したお握りを食べましたが、ウグイスの声が聞こえるばかりで、もう車はやってきません.

谷を渡る

 西山台地と同じく、台地の侵食された谷を渡る高い橋があります.こちらの方が古いので、傍にある記念碑は西山の橋本知事の前になる中内知事の揮毫です.橋の一部は海岸から見えます.

海岸から見上げる

 せっかく巨大な橋まで作りながら、なぜ荒地ばかりなのか.

点々とある水田

 小さな水田はあります.この時代、炭焼きは廃れ、各河川流域にあった森林鉄道が廃止されるなど林業も下降していました.山に居た人の生活を確保するには、稲作が行える土地を開墾することが重要であったのではないでしょうか.

整理された水田

 小さな水田の多くは放棄されていますが、耕地整理を行って規模を大きくした水田は健在です.西山も耕地は整理されていますが、後の時代、割り切ってサツマイモに特化したのでしょうか.

 崎山が農免の終端で、ようやく住居が点々と現れました.男性が詳しく岬への道を教えてくれました.26番金剛頂寺が近く、崖下に降りる遍路道と交差します.

遍路道

若者が刈った燕麦を車に積んでいました.牛の餌にするそうです.

燕麦の刈入れ
台地を下る

 道は森と草地の中を延々と下ります.

断崖を下る

 断崖の端を下って行きます.落石や落ちた枝がありますが、ウバメガシの木立で遮られ恐怖感はありません.

室戸岬

 行当岬は背後になり、室戸岬がもう近くです.海岸で1時間バスを待って戻りました.

(つづく)

高知学209 室戸への道を歩く9 羽根から吉良川へ 西山台地と2車線の広域農道

2022.4.17

 室戸への海岸に沿う段丘の中で、農地の規模が大きいのが羽根川の先に広がる西山台地です.標高はおよそ150m、国道から狭い道を登ると、突然2車線の広い道路が現れます.これが広域農道です.

台地に上がる

 台地といってもただ平らな土地が広がっているわけではなく、侵食によるいくつもの谷があり、台地は分断されて舌状に海に向かって広がっています.昔、海岸との行き来は断崖を上がり降りするしかありませんでした.写真は台地にあった案内板です.

 
 青色(一部緑)が現在耕作地になっている台地で、谷によって寸断されていることがわかります.

 台地の最上部を横に結ぶ広域農道が1990年代につくられました.案内板で示される「現在地」を通っている道です.各集落はここから枝分かれして入るようになりました.

 広域農道とは、広い範囲の営農地を団地として整備するための農道で、都道府県が管理し、幅員は5m以上(2車線)と定められています.

広域農道の終点

 上がったところが終点の集落で、突然切れているので延長の計画があったのかもしれません.

東二又橋
下を覗く

 谷は橋で越えています.もっとも大きい橋が東二又で、高さ100mくらいあるでしょうか、下を覗くと風が吹き上がり、お尻の辺りがムズムズしてきます.

広域農道を歩く

 水田や麦畑もありますがサツマイモが多く、私もこの地の産が好きです.植え付けが終わり、イノシシ除けの電撃柵が巡らされています.車の通りはほとんどありません.

水田とイモ
サツマイモ

 地図を見ると、この先の細い道が下に通じているのですが行き止まりでした.作業中の女性に訊くと「下に行くには農道しかないよ」と言われました.昔使われた谷間の急傾斜の道はもう廃道なのでしょう.

奥はセンリョウの畑

 正月の飾りで使うセンリョウも特産で、竹で覆った畑をよく見ます.日光が当たると葉の色が褪せるのです.

行当岬

 行当岬が見えます.上が崎山台地で、やはり農道があります.

 広い道を下りに下ると海岸に出ました.バスを40分待って戻りました.

(つづく)

高知学208 室戸への道を歩く8 加領郷から羽根 岬を迂回する中山峠

2022.4.5

 加領郷から羽根岬を通りますが、岬は断崖になっているので昔は山に上がり中山峠を越えていました.今もへんろみちの地図では岬回りより1km短いとしています.ただ100m迄登らなくてはなりません.加領郷から上がろうとしたのですが、登り口がなかなかわかりません.そのため一旦岬の向こうに出て逆に峠を越えてみました.

羽根岬の岩礁

 今、台地へ上がる道はどこも改修工事が進行しています.津波避難路としての役割があるのでしょう.車道を上がって東を見るとこの先の行当岬、そしていよいよ室戸岬が見えます.同じような断崖と段丘です.

行当岬と室戸岬

 峠を上る車道の傍に「へんろみち」の掛け札がありました.車を邪魔にならないところに停めて擁壁の上の遍路道を上がります.車道が古い道を断ち切っているのです.

右が遍路道

 暗い森の中に昔の街道らしく壊れた石畳が残っています.

遍路道を登る

 やがて開けますが荒地です.溜池もあり、田畑があったのでしょう.

峠道

 人影は全くありません.

草叢の棚田

 放置された棚田が残っています.中山の集落もあったはずです.しかし今は住む人の居ない家ばかりで、桜だけが変わりなく咲いています.

台地の家

 峠道を戻って羽根川を渡ります.昔は川に沿って森林鉄道があったのですが、今は工場です.

飲料工場

 自販機で馴染みの工場です.室戸深層水のドリンクはここでつくっているのでしょう.背後は採石場の跡です.

富士鍛工場 

 さらに奥に行くと富士鍛の工場があります.津波から逃れるよう移転してきたのです.大物の自由鍛造が専門で、2500トンの加工機を備え、電力、重機などの特にリング状の部品を製造しています.最大径2.7m、3.2トンまで加工可能ということです.実はこの会社、奈半利にも工場があり、貯木場の半分はこの工場の鋼材置場になっています.傍を通ると重量物を置くズンという地響き、加熱で焼ける油のにおいを感じます.

富士鍛奈半利の鋼材置場

 海岸の集落や峠の荒地と比べて落差はあまりにも大きいのです.

(つづく)

 

高知学207 室戸への道を歩く7 奈半利から加領郷へ 明るく寂しい台地の道

2022.3.17 

 奈半利には魚梁瀬森林鉄道の昔からの大きい貯木場があります.

奈半利貯木場
材木トレーラ

 巨大なトレーラトラックが材木を満載して出入りしています.これ1両で森林鉄道の1列車分ありそうです.

 さて、土佐湾東の海岸はみな同じような形で、緩い斜面が海に落ち込んで崖になっています.元は海底であった面が隆起してこの形になっています.

羽根岬と行当岬

 いま室戸は年に7mm沈下しています.フィリピンプレートが日本のプレートの下に潜り込もうとしているため、その動きに引きずられて沈むのです.しかし100年経つと限界が来て跳ね上がります.これが南海地震ですが、その量は押され続けてきたため1.5-2mです.沈下は100年で0.7m、跳ね上がりが1.7mとするとその差1mが隆起します.1,000年では10回で10m、1万年では100mになります.

 崖の下は荒海なので、昔の道は上を通っていたと思われ、奈半利の先、須川から台地に上がりました.高さは100mほどで、道は屈曲して加領郷まで続きます.

台地から

 通ってきた奈半利が見えます.

台地の桜

 点々と住まいがありますが、小さなお墓もあります.去って行った人が残したのか.ここに住まいした足跡でもあるのでしょう.

小さなお墓

 モクレンが咲いています.無くなった住まいの庭先にあったのか.

モクレンひとり

 しかし新しい小さな家もあって、豆や野菜がよく育っています.

小さな家

 下りて森に入ると鶏の声が喧しく、養鶏場があるのかと思ったら見当たりません.しかし右の森で鳴いたら左の森で答える.どうやら放し飼いにしているようです.

加領郷小学校

 加領郷の学校と港の上に出てきました.

(つづく)