高知学302  1950年代の電車2  南海電車

 大阪の私鉄電車ターミナル、それぞれに豪壮さを競っていました(中にはほど遠いものもありましたが).しかしもっとも雄大な駅は南海難波と思います.

 4棟のアーチに8本の線路です.レール置場になっているところは引上線用地で遠大な構想です.駅に接して旗の翻る高島屋、8階が大食堂でケチャップの帯の上に日ノ丸が立つオムライスが定番でした.

1954年 南海難波駅

 駅の西は南海ホークスの本拠地、大阪球場.シーズンオフにグラウンドにスケート場が開設された時期もありました.

大阪球場

 駅に入ってきたのは20m級の2001型です.1937年、このグループに日本最初の冷房電車が出現しました.個別のクーラーを屋根に載せた車両と、一か所に置いてダクトから連結2両に吹き出す車両、2種ありましたが、その後の戦争突入で撤去されました.

 球場上広告の丹頂チック、今知っている人はどれくらいかな?

難波発白浜口行きの「黒潮」

 戦争中に国有化された阪和線では天王寺から紀勢西線への列車が運行されました.1952年に南海難波からもこれに連結する車両を電車で牽引して運行することになったのですが、客車は国鉄の古いオハフ33でいかにも見劣りがします.

 南海は自前の客車を新造することになりました.これが緑色の客車、サハ4801です.本来は国鉄を上回る豪華なものにしたかったのでしょうが、それでは国鉄が許しません.三等車ですが限りなく二等車に近づけるのがそのコンセプトとなりました.

試運転中の南海の客車

南海の客車

 天井は窓上から一体の白色アルミに蛍光灯で明るいのです.座席は二等並の青色で、ビニールながら白色のカバーがかかっています.肘掛けは低く空いていれば横になって頭が乗せられます.

 さて、市電の走る駅前からは戎橋通りに入ります.背後は精華小学校で、繁華街から校門へ小さな道がありました.長じて難波が通勤ルートになったとき、休み前におみやげを買って帰りましたが、551の豚まんかヒロタのシュークリームでした.

難波駅前

高知学301 1950年代の電車1 阪急電車

関西で住まいが阪急沿線というと、「ええとこに住んではりまんなあ」と直ちに返事が返ってくるであろう.阪急のブランドイメージは格段に高いのだ.

夙川

 それは駅、電車、沿線住宅地、案内広告、宝塚歌劇など長年に渡って絶えることなく変わることなく積み重ねられた結果なのである.

 電車.溜色の品の良い塗装、車内は全鋼製でも木目印刷、戸袋窓はうっとうしい出入りが目に入らぬよう曇りガラスになっている.そしてシートは高級感溢れるゴールデンオリーブの羊毛.

 大先輩の山口益生氏が書いている.ある年天候不順から羊毛価格が高騰し、やむなく毛足を短くした.その後に乗車した役員がシートの感触の違いに気付き「質を落として価格を抑えるのは誰でもできる!」と一喝されたという(「阪急電車」、JTBキャンブックス、2012).

 夙川(しゅくがわ)の住宅地を走る大阪・神戸特急、一番阪急らしかった.

甲陽線 苦楽園口

 甲陽線は終点を含めて二つの駅の短い支線だが、阪急がつくった住宅地への路線であり、阪急らしさを感じることに変わりはなかった.六甲山へのハイキングコース入口でもある.

甲陽園

 昼間は1両の電車が往復しているところもよいではないか.

梅田2番ホーム

 阪急の梅田はガラス屋根アーチの大ターミナルで、上にはキタではもっとも高いイメージの阪急百貨店がある.しかし宝塚線の普通電車は端っこの穴蔵で着発していた.

2022年7月19日 | カテゴリー : 室戸への道 | 投稿者 : 河田 耕一 | コメントをどうぞ編集

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