高知学106 芸西から夜須 海と山の散歩道-後編 手結へ

1.手結山坂

 明治からの旧国道は55号線を横切って山に向かって続きます.この先の峠越えは「手結山坂」と名付けられていました.標高こそ60mで大したことはないのですが、海からすぐ切り立っているので、急坂かヘアピンカーブかトンネルかになります.

(手結山坂へ)

 旧国道はヘアピンカーブの道です.この辺りは近年に拡張されて歩道もあります.住宅もあるのでたまに車は通りますし、犬の散歩にも会います.

2.旧街道

(旧街道とクロス)

 道を進むと見落すような小道と交差します.これが旧街道です.道の向こうには昔琴風亭という大きい茶店があり、手前を上れば茶屋餅を商う店がありました.餅屋はいま新国道の傍に移転しています. 

(旧街道)

 いずれにせよ峠道で一息入れる場所でした.旧街道、落葉に覆われて風情がありますが、大部分は草木が茂って通行困難です.

3.手結山坂の国道

(明治からの旧国道)

 拡幅区間が終わって森の中の本来の幅の道になります.

 明治時代には馬車の運行が始まりました.しかし手結山坂は馬にとって最大の難所でした.雨が降ると泥濘となり、御者がいくら鞭を振るっても進めません.とうとう乗客が降りて後押しをしたこともあったといいいます.

 昭和初期には高知・甲浦間に30分間隔でバスが運行されましたが、トラックも通りますし、すれ違いができる道ではないので車掌の笛で再々バックしたことでしょう.この状態が1963(昭和38)年、新国道のトンネル開通まで続いたのです.

(国道55号線のトンネル)

 左が最初の国道トンネルで、狭いので右に新しくトンネルがつくられています.左端は峠から移転してきた餅屋です.上を旧国道が通っています.

4.手結山坂の鉄道 

 しかし最初にトンネルを掘って手結山坂を克服したのは、1930(昭和5)年に手結から安芸まで鉄道を建設した高知鉄道です.廃線後今は自転車道になっています.2本のトンネルが続いて、東は「登龍門」、西は「制天工」の扁額が掲げられています.

 登龍門、郡部を出て都に向かう若者の出世を願ったのでしょう.制天工、大自然を制したという意味です.今からすると短いトンネルに大げさな名前という気はしますが、土讃線もまだ全通していませんでした.これによって狭く危険な道や岬の荒波の海路に依らず、高知が全国と繫がったのです.

(制天工トンネル)
(廃線跡のウオーキング)

 しかし海岸からトンネルまでは登り勾配が続きます.1940年代では石油の不足からガソリンカーに木炭ガスが使われていましたが、出力が低く何回やってもこの坂が上れないことがありました.とうとう出てきた手結駅まで戻って夜明かしをしたといいます.

5.手結港

(手結内港)

 坂を下りると手結港に出ます.これは江戸時代、野中兼山による大工事によって陸地を掘込んだ内港なのです.湾を巡って昔からの家々が並んでいます.

(手結外港)

 しかし時と共に土砂が流入し、次第に船が入り難くなりました.そのため明治後期に海に防波堤を築き外港をつくったのです.この時代、高知と大阪の間に汽船が運行されるようになりましたが、大きい船が出入りできる港がないため、要所で沖に停泊して艀で人や物資を運んでいました.今は各地に漁港がありますが、当時は皆「我は海の子」の漁村であり、櫓櫂手漕ぎの小船を浜に上げ下ろししていました.外港によって150トンの汽船が入るようになったのです.

 一方、岬一帯は岩礁で伊勢海老がよく獲れました.写真右側の大きい建物は元伊勢海老の料亭です.

(夜須の町)

 国道を横切って昔からの夜須の通りに入ると、銀行の支店は無くなりましたが、郵便局、洋品店、美容院、散髪屋、小さなスーパー、建材店が並んでいます.旧道はさらに続きます.

(初版:2021年1月15日)         (改訂版:2022年4月2日)

2021年1月15日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学105 芸西から夜須 海と山の散歩道-前編 住吉へ

1.高知の東海岸

 高知県は室戸岬から足摺岬まで、太平洋に向かって土佐湾が円弧を描いています.大まかに言って東半分は浜辺、西半分は荒磯です.

 室戸から高知市に近づくと、松林が連なる琴が浜に出ます.淡く桂浜が見えます.

(琴が浜から高知市方向)

 浜が尽きるところには、手結岬一帯が山から押し出していて断崖になっています.道はそのまま進めないので、100mに満たない山地ですが、峠越えをします.丘の白い建物はロイヤルホテルと土佐カントリーです.

(琴が浜の西端)

 崖の端にあるのがレストランです.凝った工事でした.まず海に突き出たコンクリートの土台をつくり、その上に長く伸びたレールを敷き、上で鉄橋に似た構造物を組みます.レールの先端に滑車をつけ、ワイヤの一端を構造物に結んで他端を引っ張り、海に向かってせり出させました.

2.山越えの道

 この先の交通路はいくつかありますが、古い姿は明治40年測図の地形図から読めます.

(大日本帝国陸地測量部:二万分の一地形図「夜須」
明治40年測図 昭和3年鉄道補入、昭和5年3月30日発行)

 地図にある道を橙色に塗りました.紫色は描き加えた現在の国道55号線です.地図では鉄道の終点が左上の手結(てい)ですが、その後土佐電鉄が安芸まで延長し、その廃止後今は自転車道になっています.記入していませんがほぼ現国道に沿っています.さらに青色は現在の土佐くろしお鉄道、緑色は高速道路ですが、この区間のほとんどがトンネルで、少し谷間で顔を出すだけです.

3.曲がりくねった道

(旧道のヘアピンカーブとごめん・なはり線)

 さながら土木技術の変遷を見るようですが、実は橙色の道は1893(明治26)年頃に作られたもので、さらに昔は山を直登、直降する江戸時代の街道がありました.地図を詳しく見ると、屈曲をショートカットするような細い道が見出せます.

 今も一部残っていますが、言ってみれば野良道で、駕籠の参勤交代やお遍路さんは通れますが、荷車や馬車を始めとして、およそ「車」は通れません.

 明治になると外国に対する国土防衛の問題が生じました.砂浜は敵軍上陸に好適で、太平洋戦争では付近に特攻隊基地が置かれたことでもわかります.しかし砲車も大部隊も移動できない道しかないのではどうにもなりません.そこで新しい道路が建設されます.先の地図も1880(明治13)年以降、参謀本部によって軍事上重要な個所から着手した測量結果なのです.

3.明治の道をたどる

 山越えの道は先ほどのレストランの傍から始まります.閑静な住宅地の道ですが、軍靴が響き、軍馬が嘶く時代もあったのです.

(明治の道を上がる)

 屈曲が多いのは人力しかなかった当時、少ない工事で谷を越え、坂を上がるためです.

(坂の上から室戸方面)

 登りきると室戸方面まで広く見渡せます.

(施設の跡地)

 突き出た山地の一帯は眺めが良いので、ところどころに住宅や別荘がつくられています.ここには以前高齢者施設がありましたが、国道沿いに移転したため空地です.

(竹林の道)

 道は山裾を回って行きますが、竹林は周期的に枯れるので明るくなりました.

 この道、実は私の散歩道です.集落の中は別としてほとんど人に会いません.車はもう通りませんし、お遍路さんも国道を歩いています.

(西には桂浜)

 竹林を抜けると今度は西方向が開けて下りになります.この下で国道を横切り、漁港の住吉に入ります.

4.住吉

(カフェ)

 昔からの家並ですが、元の酒店がランチタイムに開くカフェになっています.丘の上に見えるのは観光ホテルで、元日には花火が上がりました.

 この道、昭和になって上に新国道ができるまでは、国道としてバスが通ったはずです.狭いがいまも市のコミュニティバスが通るので路上駐車をしないよう掲示が出ています.

(住吉から山へ)

 集落を抜けると再び上りになります.斜面に住宅が並ぶ辺りを進みます.フルーツトマトの無人スタンドがあります.付近の農業ハウスではトマト、スイカ、ナス、ピーマン、ニラ、その他いろいろの作物がつくられています.温暖で日照がよいのです.

(つづく)

(初版 2020年)         (改訂版2022年4月2日)

2021年1月7日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一