高知学110 宿毛から柏島・海の道-前編 龍ケ迫へ

1.高知の東西

(土佐湾)

 四国の太平洋側は、端から端まで高知県です.瀬戸内海側は愛媛県で、その東を香川県、徳島県が二分しています.高知は東西に長く、端から端まで直線距離で200kmあり、関東なら犬吠埼から富士山までの距離になるのです.

 これだけ長く、しかも南海トラフという活発な地球活動が近いので地形は複雑です.東の室戸岬方面は100年に一度の地震で隆起して盛り上がった台地と断崖の海が続きます.一方、西のエリアは沈降して侵食を受けたリアス式海岸になっています.

2.宿毛から柏島

 高知の西端の町宿毛(すくも)から、珊瑚の海のダイビングで知られた柏島まで、崖の上を狭い道が続いています.国道は山の中を通りますが、この道が入江にある漁村を結んでいます.しかし魚の運搬などは国道に出る道が別にあるので、海岸の村同士を行き来する通行は少ないのです.昔はどの道路も無かったので巡航船が使われていました.

(左から沖ノ島、姫島、鵜来島)

 宿毛の外れ、島の上にあるホテルから南を見ると離島が並んでいます.この近く迄行きます.一帯の海は鯛などの養殖の場で、筏が並んでいます.国道から分かれて青い海を見下ろす道に入ります.

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(岬と入江)

 一部で拡幅工事が行われていますが、狭い道です.

(森の道)

3.白浜とタッチ

 海の傍にある集落には分岐して下ります.

(白浜)

 白浜はその名の通り白砂の浜です.このお宅のプライベートビーチと言ってよいでしょう.

(白浜のビーチ)

 さらに先に進むとタッチです.タッチとは変な名ですが由来はわかりません.立派な岸壁や防波堤がありますが、いま傍に人も家も見当たりません.宿毛に近いから、あえてここを養殖の基地や荷揚場にすることはないでしょう.ただ小舟が2艘繋いであるので、周辺に二人は居ると思われます.

 高知のあちこちに、つくったもののあまり使われていない漁港を見ます.

(タッチ)

4.龍ケ迫

(海を見下ろす)

 戻って元の道を進みます.ところどころに一軒家があります.この辺り水は乏しいので稲作は難しそうですが、垂直に石垣を積んだ畑があります.営々と長年に渡った労働の結果でしょうが、魚はいくらでも獲れるからかなりの自給自足です.

(棚の畑)
(龍ケ迫)

 龍ケ迫(たつがさこ)に入ります.小さな漁港ですが、傾斜が緩い土地に密集せず家々が広がっていて、のどかです.

(龍ケ迫の家々)

5.休憩所

(集落の道)

 景色の良いところに休憩所がつくられています.

 中に寝そべる布団や動くのかどうかわからないラップトップが置いてあります.みんな古びていますがホームレスの住家ではなさそうです.ごみもありませんが生活感もありません.テーブルには埃の積もった小皿があります.ただコップ二つだけが磨かれています.

 昔読んだモームの小説を思い出しました.イタリアに旅行に来た英国の銀行員が、青い海と村人の生活に魅せられ、ここに住むことを決意したのです.自分の余命を25年、60歳までと定め、全財産を処分して25年で使い果たすように按分しました.海の美に囲まれ快適で知的な生活を過ごしたのです.やがて25年が経ちました.彼はまだ生きていました… 

(眼下の海)

(つづく)

2021年4月29日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学109 香南市の最奥-後編 舞川へ

5.奈良

峠の家

 奥に入るにつれて無住の家々が増えます.

(住まなくなった家)

 町からは遠いのですが、変わらず住む人もいます.親から引き継いで、次の世代がこの地で農業、林業、建設などの仕事をやるかどうかでこの差が決まるようです.

 小さな記念坂の峠を越えると奈良に出ます.

(奈良の廃校)

 廃校になった小学校が残っています.その上は教員宿舎だったのでしょう.校舎横の運動場は細長いが50m走はできそうです.

6.奈良峠

 さらに奈良峠を越えます.昔は山の上に林業や炭焼きを行う集落が点々とあり、これらを結ぶ山上の道が主要地方道(県道)になっていました.しかしこれらの集落のほとんどは消滅して道は廃道に近く、通行止めになっています.

仲木屋への道

 この道から分かれて仲木屋に向かう道路です.仲木屋は標高600mで、棚田も小学校の分校もありましたが、今は跡形もありません.

7.舞川へ

 今の道は川沿いですが林道で杉林が続きます.枝打ちは綺麗にされていますが、間伐が無かったので細い木々です.

川沿いの道

 最奥の集落、舞川に入ります.

舞川

 市の選挙があるのでポスターのボードがあります.昔若者が住んでいたのか川の上のデッキや白壁に描いた絵が残っていますが人影がありません.

(山の家)

 しかし山奥を楽しむ人たちもいて、新しく掛けた橋や対岸に渡る私設ロープウエィもあります.

(自家ロープウェイ)

 8.香南市の最奥

 やがて最奥です.老婦人が畑をやっていますが、日々はシカ、イノシシとの戦いです.今日も柵の強化のため鉄格子を運んでおられました.

動物との戦い

 この先で香美市になります.香美市は狩猟が可能ですが、香南市は禁止です.香美市で猟師に追われた動物が香南市に逃げ込めば安全が確保されるのです.

 育てられたハナモモを見たかったのですが、つぼみは膨らんでいますが早かったようです.写真は一昨年のものです. 

(4月の舞川)

 (2022年4月4日)

2021年4月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学108 香南市の最奥-前編 奈良峠へ

1.香南市

 香南市は高知の東部にあり、町村が合併して今の姿になっています.土佐湾に面した海岸部は幅9kmですが、山の奥行は直線距離で30kmあります.しかし山道の屈曲があるので、車の走行距離は40kmになり、2時間はかかります.

手結港

 住んでいる香南市夜須町には、江戸初期に土佐藩家老、野中兼山が築いた手結堀込港があります.この辺りをスタートにして最奥まで行きます.

春の田んぼ

 のどかな田園で、これからその裾を辿る山々が先に見えます.

2.夜須川

 集落と道は川に沿って山に伸びます.

夜須川の橋

 3.細川

石垣の家

 さらに進むと平地が少なくなり、石垣を城壁のように高く積み、その上に家をつくっています.石垣の上は水が内部に入らないように反り返っています.天保年間につくられたということです.

 この辺りは熟達の石工を輩出した土地であり、手結港の石垣もこの人たちが築いたのでしょう.

 4.香宗川へ

 夜須川の流れは終わりとなり、狭い山道を通って香宗川流域に出ます.

(山越えの道)

 倒れた木が道にかかり、首をすくめて通り過ぎます.

(峠のトンネル)

 峠には小さなトンネルがあります.

(峠の道)

 ヘアピンカーブを繰り返して下り、末清に入ります.

末清の家

 間もなく別役です.香南市のコミュニティバスはここまで週5日、一日2.5往復運行されています.さらにその先奈良峠の麓まで、予約すれば乗れるデマンド運行になっています.

別役

この辺りも家々は石垣の上に建っています.田畑の畔も石垣です.

(つづく)

2021年4月1日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学107 住まなくなった家

1.空き家

 国交省では「空き家」を次のように定義しています.「1年以上住んでいない、使われていない家」.別荘、賃貸住宅の空室など、ほかにその他が入ります.「その他」には転勤、入院で長期に不在、取壊し予定などが入りますが、実際にはこれが田舎の空き家の中心です.

 2018年の調査では全国の空き家率は13.6%.都道府県別では山梨が首位、以下和歌山、長野、徳島と続き、高知は第五位の18.9%、約5万戸す.

 県内では土佐清水市、室戸市、四万十町、宿毛市、香南市の順です.安芸市、香美市も高く、津波浸水の恐れのある海岸部、孤立した集落の多い山間部の人口減少が非常に大きいためと思われます.

2.住む人がいなくなった家

 散歩で1時間ほど付近を歩きます.自然にコースができていますが、どれを歩いても「住む人がいなくなった家」があります.

 上のような「空き家」ですが、空き家というとアパートの空き室を含んでいるように、一時的に空いている状態のようにも感じます.

 そこで「住む人がいなくなった家」とします.空き家なのですが、長くその状態が続いていて、周辺の様子などからもう住人は戻って来ないのではないか、という状況です.

3.家の状態

(この家は現在取り壊されています)

 「住む人がいない」次の光景です.

 雨戸が長く閉ざされたまま、草木が伸び放題、プロパンガスの配管はあるがボンベがない、通路が落葉で覆われ人が通った跡がない、など.

 4.日陰の家

 日が当たらない小さい家は住人が離れやすいように思います.

 しかし日陰とはいうものの、辺りの木々が伸び放題だからそういう印象を与えるので、切ってしまえば随分変わります.もっとも付近は別の地主で、勝手に切るわけには行かないのかもしれません.

 近くに何種類かの見事な桜に囲まれた家がありました.家の主は桜の研究者であったとも聞きます.ところが空き家になって桜が急速に勢いを失い枯れてしまいました.「あるじ無きとて咲くを忘れ」たのかもしれません.

5.ゴミ屋敷

(この家は住人が吊るしていた蚊取線香が落ちて焼失しました)

 空き家というとゴミ屋敷のイメージがありますが、実際にはそのような家は滅多にありません.住まない、と決めた時点で整理や掃除がされています.ゴミ屋敷はもともと整理や清掃をしたことがない、という住人によります.

6 .海岸の家

 海岸の家は厳しい状況にあります.津波の心配があるためです.

 左の舟があるところは児童公園で右は岸壁.若い漁師さんは高い国道近くに家を建てて住んでいます.漁の職場には車で通えばよいのです.

7.ラスト50m

 石垣を積んだ斜面に重なるように並ぶ家々.漁港の風情ですがこれは高齢者に厳しいのです.急な斜面の狭い道を助けなしに上がり降りすることは困難です.

 老人施設の送迎車が止まって車椅子を下ろします.その乗移りにも時間がかかります.その後に職員が押して上がります.ラスト50mが問題なのです.

 「住まなくなった家」、それぞれに理由がありますが、「住んでいる家」になれば、と思いながら歩いています.

(初版:2021年2月28日)         (改訂版:2022年4月6日)

2021年2月28日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学106 芸西から夜須 海と山の散歩道-後編 手結へ

1.手結山坂

 明治からの旧国道は55号線を横切って山に向かって続きます.この先の峠越えは「手結山坂」と名付けられていました.標高こそ60mで大したことはないのですが、海からすぐ切り立っているので、急坂かヘアピンカーブかトンネルかになります.

(手結山坂へ)

 旧国道はヘアピンカーブの道です.この辺りは近年に拡張されて歩道もあります.住宅もあるのでたまに車は通りますし、犬の散歩にも会います.

2.旧街道

(旧街道とクロス)

 道を進むと見落すような小道と交差します.これが旧街道です.道の向こうには昔琴風亭という大きい茶店があり、手前を上れば茶屋餅を商う店がありました.餅屋はいま新国道の傍に移転しています. 

(旧街道)

 いずれにせよ峠道で一息入れる場所でした.旧街道、落葉に覆われて風情がありますが、大部分は草木が茂って通行困難です.

3.手結山坂の国道

(明治からの旧国道)

 拡幅区間が終わって森の中の本来の幅の道になります.

 明治時代には馬車の運行が始まりました.しかし手結山坂は馬にとって最大の難所でした.雨が降ると泥濘となり、御者がいくら鞭を振るっても進めません.とうとう乗客が降りて後押しをしたこともあったといいいます.

 昭和初期には高知・甲浦間に30分間隔でバスが運行されましたが、トラックも通りますし、すれ違いができる道ではないので車掌の笛で再々バックしたことでしょう.この状態が1963(昭和38)年、新国道のトンネル開通まで続いたのです.

(国道55号線のトンネル)

 左が最初の国道トンネルで、狭いので右に新しくトンネルがつくられています.左端は峠から移転してきた餅屋です.上を旧国道が通っています.

4.手結山坂の鉄道 

 しかし最初にトンネルを掘って手結山坂を克服したのは、1930(昭和5)年に手結から安芸まで鉄道を建設した高知鉄道です.廃線後今は自転車道になっています.2本のトンネルが続いて、東は「登龍門」、西は「制天工」の扁額が掲げられています.

 登龍門、郡部を出て都に向かう若者の出世を願ったのでしょう.制天工、大自然を制したという意味です.今からすると短いトンネルに大げさな名前という気はしますが、土讃線もまだ全通していませんでした.これによって狭く危険な道や岬の荒波の海路に依らず、高知が全国と繫がったのです.

(制天工トンネル)
(廃線跡のウオーキング)

 しかし海岸からトンネルまでは登り勾配が続きます.1940年代では石油の不足からガソリンカーに木炭ガスが使われていましたが、出力が低く何回やってもこの坂が上れないことがありました.とうとう出てきた手結駅まで戻って夜明かしをしたといいます.

5.手結港

(手結内港)

 坂を下りると手結港に出ます.これは江戸時代、野中兼山による大工事によって陸地を掘込んだ内港なのです.湾を巡って昔からの家々が並んでいます.

(手結外港)

 しかし時と共に土砂が流入し、次第に船が入り難くなりました.そのため明治後期に海に防波堤を築き外港をつくったのです.この時代、高知と大阪の間に汽船が運行されるようになりましたが、大きい船が出入りできる港がないため、要所で沖に停泊して艀で人や物資を運んでいました.今は各地に漁港がありますが、当時は皆「我は海の子」の漁村であり、櫓櫂手漕ぎの小船を浜に上げ下ろししていました.外港によって150トンの汽船が入るようになったのです.

 一方、岬一帯は岩礁で伊勢海老がよく獲れました.写真右側の大きい建物は元伊勢海老の料亭です.

(夜須の町)

 国道を横切って昔からの夜須の通りに入ると、銀行の支店は無くなりましたが、郵便局、洋品店、美容院、散髪屋、小さなスーパー、建材店が並んでいます.旧道はさらに続きます.

(初版:2021年1月15日)         (改訂版:2022年4月2日)

2021年1月15日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学105 芸西から夜須 海と山の散歩道-前編 住吉へ

1.高知の東海岸

 高知県は室戸岬から足摺岬まで、太平洋に向かって土佐湾が円弧を描いています.大まかに言って東半分は浜辺、西半分は荒磯です.

 室戸から高知市に近づくと、松林が連なる琴が浜に出ます.淡く桂浜が見えます.

(琴が浜から高知市方向)

 浜が尽きるところには、手結岬一帯が山から押し出していて断崖になっています.道はそのまま進めないので、100mに満たない山地ですが、峠越えをします.丘の白い建物はロイヤルホテルと土佐カントリーです.

(琴が浜の西端)

 崖の端にあるのがレストランです.凝った工事でした.まず海に突き出たコンクリートの土台をつくり、その上に長く伸びたレールを敷き、上で鉄橋に似た構造物を組みます.レールの先端に滑車をつけ、ワイヤの一端を構造物に結んで他端を引っ張り、海に向かってせり出させました.

2.山越えの道

 この先の交通路はいくつかありますが、古い姿は明治40年測図の地形図から読めます.

(大日本帝国陸地測量部:二万分の一地形図「夜須」
明治40年測図 昭和3年鉄道補入、昭和5年3月30日発行)

 地図にある道を橙色に塗りました.紫色は描き加えた現在の国道55号線です.地図では鉄道の終点が左上の手結(てい)ですが、その後土佐電鉄が安芸まで延長し、その廃止後今は自転車道になっています.記入していませんがほぼ現国道に沿っています.さらに青色は現在の土佐くろしお鉄道、緑色は高速道路ですが、この区間のほとんどがトンネルで、少し谷間で顔を出すだけです.

3.曲がりくねった道

(旧道のヘアピンカーブとごめん・なはり線)

 さながら土木技術の変遷を見るようですが、実は橙色の道は1893(明治26)年頃に作られたもので、さらに昔は山を直登、直降する江戸時代の街道がありました.地図を詳しく見ると、屈曲をショートカットするような細い道が見出せます.

 今も一部残っていますが、言ってみれば野良道で、駕籠の参勤交代やお遍路さんは通れますが、荷車や馬車を始めとして、およそ「車」は通れません.

 明治になると外国に対する国土防衛の問題が生じました.砂浜は敵軍上陸に好適で、太平洋戦争では付近に特攻隊基地が置かれたことでもわかります.しかし砲車も大部隊も移動できない道しかないのではどうにもなりません.そこで新しい道路が建設されます.先の地図も1880(明治13)年以降、参謀本部によって軍事上重要な個所から着手した測量結果なのです.

3.明治の道をたどる

 山越えの道は先ほどのレストランの傍から始まります.閑静な住宅地の道ですが、軍靴が響き、軍馬が嘶く時代もあったのです.

(明治の道を上がる)

 屈曲が多いのは人力しかなかった当時、少ない工事で谷を越え、坂を上がるためです.

(坂の上から室戸方面)

 登りきると室戸方面まで広く見渡せます.

(施設の跡地)

 突き出た山地の一帯は眺めが良いので、ところどころに住宅や別荘がつくられています.ここには以前高齢者施設がありましたが、国道沿いに移転したため空地です.

(竹林の道)

 道は山裾を回って行きますが、竹林は周期的に枯れるので明るくなりました.

 この道、実は私の散歩道です.集落の中は別としてほとんど人に会いません.車はもう通りませんし、お遍路さんも国道を歩いています.

(西には桂浜)

 竹林を抜けると今度は西方向が開けて下りになります.この下で国道を横切り、漁港の住吉に入ります.

4.住吉

(カフェ)

 昔からの家並ですが、元の酒店がランチタイムに開くカフェになっています.丘の上に見えるのは観光ホテルで、元日には花火が上がりました.

 この道、昭和になって上に新国道ができるまでは、国道としてバスが通ったはずです.狭いがいまも市のコミュニティバスが通るので路上駐車をしないよう掲示が出ています.

(住吉から山へ)

 集落を抜けると再び上りになります.斜面に住宅が並ぶ辺りを進みます.フルーツトマトの無人スタンドがあります.付近の農業ハウスではトマト、スイカ、ナス、ピーマン、ニラ、その他いろいろの作物がつくられています.温暖で日照がよいのです.

(つづく)

(初版 2020年)         (改訂版2022年4月2日)

2021年1月7日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学104  八畝と怒田の棚田

1.棚田の地域 

 高知県の北部、徳島との県境に近い吉野川南岸に帯状に棚田地帯が伸びています.八畝(ようね)、怒田(ぬた)はその中にあります. 

(八畝、怒田の棚田)

 見た人が「マチュピチュだね!」と言いましたが、山の頂近くから谷底まで棚田が並び、家々が点在しています.

(山上の道路)

 各家々が近くに見えていても、この斜面のどこをどう上るのかは難しく、そのため住居と道路を示す地図が沿道にあります.ただメインの道路は何となく一本道で、迷うことはありません.

2.棚田を見る

(春の棚田)

 春、田植えが済んだ水田では蛙の声が盛んですが、投影面積の割りにひと区画の田は狭く、その間にある土手の傾斜が緩いことに気付きます.

(山上の水田)

 周囲の山が見渡せる高所でも、水田には豊かに水が湛えられています.しかし溜池や用水路があるわけではありません.緩やかな傾斜と豊富な水、これがこの地域の特徴です.

 地質学者によれば、この一帯は御荷鉾(みかぶ)帯と呼ばれる地質であり、その底部では、緑色岩が水による変成を受けて粘土化し、水を通さない厚い層をつくっているとのことです.その上に風化した層、長年に渡って崩壊した層が乗り、大量の水を過飽和なまで含んでいます.いわば洗面器に水を湛えた状態なのです.

3.地すべり対策

 傾斜が緩く水が豊富、耕作には良いのですが、もともと地すべりが重なって生まれた地形なのであり、地すべりはついて回ります.

(地すべり対策事業の掲示板)

 そのため長期に渡る国の直轄事業で地すべり対策工事が進められてきました.完了に近づいていますが、まだ進行中のところもあります.

(排水路)

 河道を広げ護岸を行って水流を確保すると共に、ところどころの斜面に新しく排水路を設けています.

(集水井)

 井戸を設けて斜面の水を集め放水します.近づくと水音が聞こえます.地下に多数の排水管を設置することも行われています.

(GPSによる地盤移動監視)

 斜面のところどころにGPS受信機を設置し、地盤の位置変化をモニターしています.

4.棚田の秋

 地すべり工事はありますが、刈入れを終わった秋の棚田はのどかです.銀杏が金色に光ります.

(秋の怒田)
(秋の八畝)
(民宿・レーベン)

 地域には民宿があり、レーベンもその一つで、牧場があることからチーズづくり体験をしたことがあります.

5.山を巡る

(山腹の林道)

 八畝からの山腹を林道が西に向かって長く伸びています.分岐には人家もなく山に迷い込んでしまわないか不安になりますが、森と斜面を進んでいるとその内に土讃線の大杉駅に達します.

(連なる山々)

 西には石鎚に連なる山並みが重なっています.朝霧が濃いということです.次第に冷え込んでくるのでしょう.

(初版:2020年12月4日)      (改訂版:2022年4月1日)

2022年4月2日 改訂版

2020年12月4日 | カテゴリー : 高知学 | 投稿者 : 河田 耕一

高知学103 激動の室戸岬-後編 甲浦へ

1.東海岸

 四国遍路八十八ヶ所、1,200kmの道ですが、もっとも厳しいのは、徳島県の二十三番薬王寺から室戸岬の二十四番最御崎寺に至る75.4kmではないでしょうか.距離があるというより、道そのものが厳しいのです.

 さらにその間で野根から三津に至る25.4kmは断崖の海岸であり、中でも野根から入木までの10kmには全く人家がありません.

(下は三津漁港)

 室戸岬のスカイラインから見ると、山の急斜面が直接海に落ち込んでいることがわかります.さらにこの斜面は海面下1,000mまで達しているのです.

 急に深くなっているので、深海の魚であるキンメダイの漁場です.また一帯は魚の通り道で定置網が仕掛けられています.泳いでいる内に壁に当たり、それに沿って進むと、捕獲の網の中に入り込む仕組みです.

(定置網)

2.海の道

(海岸の道を北へ)

 波が寄せる道を室戸から北の徳島県に向かって進みます.どこまで行っても海と空です.ガードレールは潮風ですっかり錆びています.格別波の強い日ではありませんでしたが、車を降りて地面に立つと、波による地響きが伝わってきます.

(夫婦岩)

 途中に四つの岩塊から成る夫婦岩があります.岩が蜂の巣状、網状になっています.侵食と共に、塩が結晶化する際に岩の成分を分解する作用が伴うそうです.

3.渚の遍路道

(遍路道だった波打際)

 現在の国道は崖を削り、海辺にコンクリートの擁壁をつくってできていますが、昔は海岸に道がありませんでした.土佐藩の参勤交代は室戸岬への海岸を通らず、この先の徳島県境に近い野根から山道を通っていたのです.

 しかし遍路はそうは行きません.室戸岬のお寺をパスできませんし、何よりもここは空海が修行した空と海であり、悟りを得た洞窟もあるのです.

 道が無いので波打際を歩きます.岩を攀じ登り、砂利に足を取られながら進むのです.恐ろしいのは天候の急変です.波が強くなるともう歩けません.崖を攀じ登り、木につかまって過ごすしかありません.

 そのため海の道の入口である北の野根には、遍路を泊める善根宿が多かったといいます.天候待ちをして、地元の人が「今日なら」というとき、暗い内に出発して無人の海岸を抜けるのです. 

(お遍路さん)

 途中には難所に行き暮れた遍路を泊めるよう、番外霊場の仏海庵が設けられていました.今でも野根から室戸まで一日で歩き通すことはハードなので、途中の海岸に民宿があります.ほかに人家がないため、バス停は「民宿徳増」などとなっています.

4.野根から甲浦

 野根には土曜日に地元のご婦人方が行う小さな朝市があります.こけら寿司の伝統料理があり、頼んでおけば取り置きしてくれます.

(野根の朝市)

 さらに進めば壮絶な海岸は終わり、生見のサーフィンビーチです.

(サーフィンの海)

白い浜に波が寄せ、ショップやペンションがあって、「湘南海岸」です.

(海岸のカフェ)

 さらに先の甲浦(かんのうら)が県境になります.昔、阪神と高知間の交通で船が大きい役割を果たしていた時代、汽船は甲浦に寄っていました.家内が学生のとき友人に室戸の網元の娘がいて、あるとき鰹を一本ぶらさげて船に乗り、大阪の先生に持って行ったそうです.

 甲浦駅は徳島からの牟岐線と接続する阿佐海岸鉄道の終点です.線路を走った後、鉄輪を上げタイヤで道路を走るDMV(Dual Mode Vehicle)が運転されています.

5. こけら寿司

(こけら寿司)

 往復180kmでしたが、日のあるうちに帰って早速こけら寿司で一杯.

 炊いた飯に焼サバをほぐして混ぜたゆずのしぼり汁を加え、木枠に入れて押す.上に卵焼き、人参、椎茸、人参の葉を乗せる.これを5段に積んで重石をする.一升が一段です.野根のご婦人は、下ごしらえはしていたが夜中2時に起きてつくったそうです.お祝いごとで多く、丁度七五三で大きい包みが置いてありました.

 綺麗だし味もきつくありません.好きです.

(初版:2020年11月26日)       (改訂版:2022年4月2日)

高知学102 激動の室戸岬-前編 室戸岬へ

 1.南海トラフ

 高知県は、東は室戸岬、西は足摺岬を両端とする半円形の土佐湾に面しています.ただしこれらの岬は県境ではなく、突き出た二つの岬を回った先のそれぞれの根元までが高知県です.

(室戸岬の灯台と太平洋)

 室戸岬の南、太平洋に向かって140km、水深4,000mの辺りで、南から来たフィリピン海プレートが日本のプレートの下に年間数cmの速度で潜り込んでいます.潜り込む一帯が南海トラフと呼ばれ、この運動に引きずられて高知県東部は徐々に沈みます.

 しかしある限度に来ると、変形に耐えられなくなって跳ね上がります.これが南海地震です.跳ね上がる間隔、すなわち地震の間隔はほぼ100年で、跳ね上がる量、隆起量は毎回1.5-2mです.隆起量はそれまでに沈んできた量よりも大きいのです.それはプレートの移動と共に、上に乗っていた海底の岩石、土砂がプレートから剥がされ、陸地に押し付けられて盛り上がるためです.

(室戸岬の海、この先140kmで…)

 有史以前から地震は繰り返されていますが、近年では1707年の宝永地震、1854年の安政地震、1946年の昭和地震があります.

 今は昭和地震から76年ですが、沈下は着実に進行していて、昭和以来、室戸岬先端で0.6mです.次はいつかとなりますが、昭和地震は隆起量が1.2mと比較的規模が小さく、歪が解消しきれていないので100年目より早いのではないか、2038年辺りの可能性が高い、との推定があります.

2.室戸岬

(室戸の台地から)

 室戸岬を訪ねます.

(海洋掘削船「ちきゅう」)

 南海トラフの地下の状況を知ることができれば大変役立ちます.海洋研究開発機構などによって、掘削船「ちきゅう」を用い、トラフ地域の海底7,000mまでパイプを下ろして掘削、資料を採取し、センサを設置しています.写真は自宅近くの海を航行中の「ちきゅう」です.

 室戸岬上の展示板に詳しい水深図が示されています.左下から右上へ、紫色が濃くなる部分が南海トラフです.

(高知の海底水深図、ジオパークの展示板)

 図を見ていくつか気が付くことがあります.

 第一は、土佐湾全体は遠浅の入江ということです.二つの岬を結んだ線でようやく深くなるのです.太平洋に面していても穏やかなのです.しかし地震で津波が発生すると浅瀬で波がどんどんと盛り上がります.

 第二は、室戸岬の東の海底が突然1,000m近い断崖になっていることです.この辺り陸地でも300mくらいの崖ですから、海水がなければ併せて1,300mの大断崖が聳えることになります.この付近には活断層があり、断層崖だそうです.

 第三は、岬の南東に浅い一帯があることです.これについて記された書物は知りませんが、隆起地域内にあるのですから、いずれは島になるのかもしれません.

3.室戸岬へ-西の海岸

(西の海岸)

 朝、室戸岬へ向かいます.土佐湾に面した西の海岸は、海底から順次隆起してできた段丘で、岬はみな同じ形をしています.上の日当たりのよい台地ではサツマイモがつくられています.道の駅に軽トラでいろいろの品種のイモが次々運び込まれます.いつも大量に買い込みます.

(台地のイモ畑)

 室戸岬の少し手前の室津が室戸市の中心部です.札所の津照寺の下に魚屋があり、よく買物をします.お遍路さんもお詣り前に予約をしています.

(室戸の魚屋)

(初版:2020年11月22日)         (改訂版:2022年4月2日)

高知学101 最長の過疎 伊尾木川を源流まで-後編 別役へ

1. 明夜から上流へ

 まだまだ岩石が転がり、土砂の堆積も続きますが、次第に量は少なくなります.

(昼休み)

 折柄昼休みで、作業員が網を手に魚を探っています.平常なら河原は鮎釣りの人で賑わうのですが.

(落ちた橋から)

 橋が落ちて対岸に行くことはできません、下の流れは澄んでいます.急流で水嵩が多いから濁りの解消が早いのです.

2.山上の集落

        (山上の集落はどこに)

 かつては河口から源流域まで森林鉄道が敷かれ、さらに横荒川に支線もありました.大型ダンプの往来が少なくなり、道は次第に落ち着いてきますが、狭くもなります.

(
(国土地理院 1:25,000地形図、「赤城尾山」
平成20年10月1日発行より.黄色は走行中の道路)

 地図を見ると天ノ郷は標高800mですが水田や畑もあり、まさしく別天地のように思えます.行ってみたい気はしますが、もう住人は無いでしょうし、点線の徒歩道もおそらく廃道で、草木を掻き分けないと到達できないでしょう.

 なぜこんな高いところに住んだのか.それは林業、炭焼きの働き場所が山の上にあったからです.

(川上側から見た川成集落.右に分かれている林道を上ると山上の集落近くに達するのですが)

3.最後の集落

         (別役公民館)

 付近一帯は携帯の圏外です.公民館は使われていませんが、非常の連絡に備え小窓を開けて公衆電話がかけられるようになっています.

(土居-最後の集落)

 別役土居が最後の集落です.元は河道がなく岩石の間を流れるままになっていましたが、谷を削って流路がつくられています.パイプを通る山からの水も加わり、流れの轟音が辺りに響いています.源流近くでこれですから、山がいかに大量の水を含んでいるかがわかります.道路にもあちこちで水が流れています.

(アメゴの養殖)

 人の姿が見えたので訪ねました.ご夫婦でここでアメゴの養殖をしています.市は衛星電話機を貸しているそうです.

 お聞きすると、前編で記した入口の大井からここに至るまで、住人はいま4人ということです.ここに2人だから、ほかのどこかに2人.

 以前に出会った、90を過ぎて色白でなおかくしゃくとしたご婦人、これから鮎釣りにでかけるというその老息子、育てている椎茸をサルがむしって困ると話していたご夫婦、みんなどうしたのでしょうか.地図上ではこの間の集落が19に上るのですが.

4.駒瀬越

(駒瀬越から)

 これから先、徳島県に至る峠道は通れるかどうかお訊きすると、三日前に通ったので可能であろうとのことでした.

 屈曲を繰り返して400m上り、1,050mの駒瀬越に至ります.下に土居の集落が見えます.この谷を雨雲がやってきて大量の雨を降らすのです.

(駒瀬の山林)

 辺りの急傾斜の山は植林した木々で覆われています.一本一本すべてを人の手で植えて育てたのです.

 トンネルを抜けて徳島県に入ると、1,400m級の山々で遮られので、もう災害個所はありません.ただし人家もありません.半分くらいが舗装のないダート道で、下りに下って、高知と徳島を山間で結ぶ195号線に出ます.

-おわり- 

(2020年10月28日 初版)     (2022年4月1日 改訂版)